日本オージオロジー学会30年

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 昭和24年に、わが国で初めて商用電源を使ったオージオメータが発売された。

 当時はJIS規格もなかったので、基準となる0dBも定められていな かったが、国産のオージオメータができたことから、従来の音叉による聴力検査にかわって一般臨床でもオージオメータによる聴力測定が広く行なわれるように なった。その結果、難聴の診断も正確になって来て、聴力障害に関する研究も盛になり、聴力に関心のある若手研究者が集まって、談話会を持ち討論が行われる ようになった。昭和25年頃であった。始めは、局地的な集りが主であったが、やがて全国的な集まりの必要が感ぜられ、昭和26年、難聴研究会が発会した。 これが日本オージオロジー学会の源流である。

 第1回の難聴研究会は、昭和26年12月8日に東大で行なわれた。世話人は颯田琴次、西端驥一、大藤敏三、切替一郎、堀口申作、恩地豊、幹事は堀口申 作、恩地豊、大和田健次郎、岡本途也であった。演題は14題、座長は森本正紀、高原滋夫両教授で、参加者は約40名であった。研究会の主旨として研究途上 のものを持ち寄り、相互に意見を交換し、完成に導くということで、この考えはオージオロジー学会の初期まで続いた。発表者は、謄写版を用い、ザラ紙に必要 な資料を印刷し、出席者数を想定して会場で配布した。さらに黒板を用いて説明を補うこともあった。第2回以降は毎年秋に行うことになり、以後年1回11月 に開催されて第5回まで続いた。しかし、オージオメータは出来たが、当時はまだ機器や測定方法に一定の規準がなかったので、各研究機関が得られたデータを 持ちよった場合、それらを相互に比較することに問題があった。そのため昭和28年、第3回の難聴研究会の時に、聴力測定基準作成の委員会が設けられ、その 委員会が母体となって昭和29年度文部省科学研究費総合研究を申請して認可された。この申請が認可されたことによってこの問題は難聴研究会と併行して別組 織で進められることになった。総合研究のテーマは「聴力測定法の基準」、代表者は東京芸術大学教授(前東大教授)颯田琴次であった。

 この研究班の第1回の班会議は、昭和29年秋、信州大学で行なわれた。世話人は信州大学教授鈴木篤郎で出席者39名であった。

 この班研究は昭和29,30,31年度の3年間にわたって続けられ、計8回の班会議が持たれたが、ひとつの目的に向って所属の異なる多くの研究者が協 力して検討を進めるという研究の方法は極めて能率的であり、その成果も目覚ましく、また研究者相互の連繋や親睦という点でも有効で、この時期にわが国の聴 覚研究は著るしく進歩し、また研究者間のまとまりも良く、オージオロジー学会への発展を極めて円滑容易なものとした。

 「聴力測定法の基準」研究班は、昭和29,30年度2年間の研究成果にもとづいて、昭和31年、「聴力測定法の規準」を出版した。

 この規準には、気導純音オージオメトリーの方法、オージオグラムの記載方法、語音オージオメトリーの方法が含まれているが、いずれも簡にして要を得た 素晴らしい規準であって、30年を経た現在まで、全く変更されることなく聴力検査の基本的指針として生き続けたことは特筆大書すべきことであると思う。

 研究班は、3年目にあたる昭和31年度には、骨導聴力測定法や閾値上聴力測定法の規準作成にいどんだが時間切れのためにまとまらなかった。

 この研究班において、聴力測定法の規準がまとまりかけた頃には、聴力関係の研究を志す若い人が全国的に増加し、難聴研究会の演題数も第3回が11題、 第4回が18題、第5回が34題と飛躍的な増加を示し、また参加者数も第5回には200名に達する盛況となったので、第5回の難聴研究会(昭和30年11 月27日)の席上次回から難聴研究会をオージオロギー学会と改組改称することを決定し、ここに日本オージオロジー学会の誕生となった。

 学会名をオージオロギー学会とするにあたっては論議が尽くされたが、分野はオージオロジーであるが、これに相当する日本語がないので、欧語をそのまま とってオージオロギー学会と決った。当時の指導者層は多くの人が独逸語を多用していたので独逸語読みの“オージオロギー”が始めは正式名称として使用され たが、第3回から“オージオロジー”に統一された。学会誌は創刊号からオージオロジーAudiology である。

 第1回オージオロギー学会は、昭和31年10月26日、討論会の形式で慶応大学で行なわれた。
このようにして日本オージオロジー学会は、会員数約300名、年会費200円で発足したが、会則は定められず、また会長や運営のための組織などもあら ためて定められることなく難聴研究会の頃と同様に少数の幹事が事務や運営の全般にわたる実務について学会を運営した。また講演会も難聴研究会の時と同様に 自由な討論を重視し、特別講演やパネル討議、シンポジウムなどの特別演題は行わないことを基本的に申し合わせ、一般演題を尊重する姿勢を打ち出して運営さ れた。この姿勢は30年後の今日まで一貫して保たれている。

 第2回オージオロギー学会は京都で行われた。この時会員が自発的に応募した一般演題37題は、テーマ別に5群にわけられた。聴力測定に関する会13 題、職業性難聴に関する会8題、聴器電気生理に関する会4題、前庭迷路に関する会6題、およびその他5題である。この時の前庭迷路に関する会が後に前庭研 究会となり、更に現在の平衡神経科学会に発展した。またこの時オージオロギー学会は明瞭度検査用のLPレコードを作製したことを公示し、1枚1200円で 頒布した。この語表(昭和31年出版の「聴力測定の規準」に定められた無意一音節会話率50語)は後に57式語表と呼ばれるようになった。

 学会となったために、学会発表の正式記録を残す必要から、学会誌の発行が計画され、日本オージオロジー学会の正式Journal が昭和33年に創刊された。会誌の名称は “Audiology” で、昭和33年は1号のみ発行されたが、34年から年2回の発行となり、学会発表の抄録集が1冊、学会の総括報告と広報的な内容の雑報を1冊に集録した。 この頃の編集は、堀口申作、大和田健次郎、岡本途也、河村正三が担当した。会誌の印刷は、大和田健次郎が大蔵省印刷局に勤務した関係から、印刷局朝陽会に 依頼した。この印刷所は学会誌の経験がなかったので、当初は大和田が割付けや較正を行なった。

 第4巻から季刊(年4冊)となったが、まだ原著論文を一般に公募していなかったので、依頼原稿や外国文献の抄録を主に掲載し、そのために編集委員会を 設けて作業を進めた。第5巻1号(昭和37年)に始めて投稿規定が公示され、一般からの応募論文を掲載することになったが当分の間は応募数が少なく、半ば 依頼のような形で原稿を集めた。しかし、編集委員会は当初より応募論文の査読を適正に行うようにその方針を定めていたので、依頼原稿に註文をつけるという ような多少の問題点はあったが大きなトラブルはなく、学会誌の内容は高く保たれて現在に至った。

 なお学会誌の正式名称は昭和43年第11巻から”Audiology Japan”とあらためられた。また同時に第11巻から表紙のデザインを変更した。表紙のデザインの変更は第21巻でも行なわれ、以後10巻ごとに変更することが申し合わされた。

 オージオロジー学会の初期の頃は、会員数も現在のように多くなかったので、難聴研究会の延長のように充分な時間をとって討論を行うように計画された。 したがって一つ一つの演題は、研究目的や方法、結論の導き方、文献の引用など微細な点まで討論され、不明確なところは多くの出席者から指摘を受けた。その ため結論を翌年に持越すこともあった。この方針は厳し過ぎるという批判もあったが結果的にはわが国におけるオージオロジー研究の正しい発展に寄与した。

 オージオロジー学会は、発足当初から日本音響学会と領域上の関係があって研究者も交流したので学会のあり方などに音響学会の影響も受けた。医学会と異 なる音響学会にはそれなりの長所と短所があるように思われたが、良い影響も少なくなかった。学会内に委員会を設け、研究の推進をはかったのはその良い例で ある。委員会活動は、初期のオージオロジー学会の学会活動を支える一つの力となった。

 難聴研究会の会長は東京芸術大学教授(前東大教授)颯田琴次であり、文部省聴力測定法の基準研究班の班長もまた颯田琴次であったので、日本オージオロ ジー学会も発足当初は颯田琴次が会長(後に会頭)となり、会長の指名する若干名の幹事がその運営に当って来たが、年に1度の講演会の開催のみでなく、会誌 の発行、委員会の世話、他学会との関係などに事務的な仕事量が増し、また会員数も増加して会費の額も増えてくると、従来のように少数の幹事による運営では 難かしい面が出来てきた。そこで昭和41年、会則の大改正が行なわれ、理事、評議員制が定められた。名実ともに開かれた学会としての第1歩を踏み出したわ けである。初代理事長には東京医科歯科大学教授堀口申作が就任した。

 日本オージオロジー学会は、その発足の状況から見ても、研究の対象とする主領域をmedical audiology に的をしぼっており、その点については現在も変わっていない。従って最も関連の深い他の学会は日本耳鼻咽喉科学会であって、発足当初から常に深いかかわり をもって現在に至った。現在日本耳鼻咽喉科学会は十指にあまる関連する学会研究会を有しているが、日本オージオロジー学会はその中で最も古い歴史を持つ学 会の1つである。また難聴は耳疾患の症状の中でも大きな地位を占めるものであるために、耳の疾患の多くが難聴研究会-オージオロジー学会の研究領域に含ま れることとなったのも自然である。そのために耳に関連するテーマを持つ学会の少なからざるものが日本オージオロジー学会を母体とし、また足がかりとして発 生していった。先に述べた日本前庭研究会もその例である。同様のことは、オトマイクロサージャリー研究会-日本臨床耳科学会、内耳生化学研究会-日本基礎 耳科学会についてもいえる。

 以上日本オージオロジー学会30年の経過の大要、とくに初期の頃のことを重点的に述べた。

 本学会は長い間発足当時の研究会的性格を堅持していたが、最近時代の変化を背景として少しずつ変貌することを余儀なくされている。演題数も増え、討論 時間の制限もやむを得ない状態となった。学会の内容も先に述べたような耳科学関係の多くの学会が独立発展するにともなって変化した。また発足当初新進気鋭 であった研究者の多くは老成して若い頃の気慨を欠き、それにともなって学会も円熟した。あらゆる意味で1つの転換期にあることは否めないが、会員数 2000を越える充実した学会となった今、今後の方向を適確に見定め、社会の変化に正しく対応しつつ、学問の発展に寄与していくことが本学会の変らざる使 命であろう。会員の英知と努力が特に期待される時である。

(1985年作成のオージオロジー学会史より引用)

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